2013年御翼11月号号外

淵江淳一『神道とイスラエル古代思想とキリスト道』

 佐藤陽二師は、旧約聖書の「聖戦」思想を説明して次のように言う。「聖戦が、精いっぱいの防衛戦だけであるとするならば、『主がモーセに命じられたように…みな殺した』(民数記31章5節)とあるのは、どのように読み、また解釈したらよいのであろうか。神が、ほんとうにそのようなことを命令されたのであろうか。結論から言うならば、モーセあるいは民数記の記者、または編集者が、神の、み心であると考えた、ということである。
 いいかえれば、『神の意志』と、人間が、ある問題を『神の意志である』と考えることとは、別の場合がある、ということにほかならない」(佐藤陽二『民数記』p.150)と。また、「したがって、『主がモーセに命じられたように…その男子をみな殺した』とある場合に、『主がモーセに命じられた』と早急に判断しすぎ、そう信じ込み、考え、実行した、と読むのである。同じ旧約聖書でも、エゼキエル書18章23節は、「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」と言って、聖戦思想を否定している。新約聖書には、この「ことごとく滅ぼす」というような聖戦思想は、見あたらない。イエス・キリストは、「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26章52節)と教えられた。また「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ」(ルカ6章27〜28節)とある。さらに、人間の守るべき絶対的律法は、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」ということと、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」の二つである。(ルカ10章27節 参照 申命記6章5節、レビ記19章18節)。これは、旧約聖書と新約聖書とを通して、変わることない神のみ心であった。
 次に使徒パウロは、「自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい」(ローマ12章19節)、また、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい」(ローマ12章20節)と語っている。ヨハネもまた、「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである」(ヨハネ第一4章11節)と言う。このようにして、旧約聖書の「ことごとく滅ぼす」という言葉は、イスラエルが他の民族に対して、そうすることが、「神の、み心である」と旧約聖書の記者たちが、誤って受けとめたものであったことがわかるのである。
 このことは、旧約聖書が誤りであるという意味ではない。それは弱点の多い人間を用いて、神は救済の歴史を完成へ向かって進めておられるということである(佐藤陽二『民数記』p.153)。このことが正しく受けとめられずに、後の教会もたとえば十字軍など繰出したのは他に理由があったとしても、やはり聖戦の思想があったからであって、いつもキリスト中心に見るべきである。  

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